ヒューマンエラーはなくならない

−人は失敗するもの−
2003年11月  飯野謙次
   人は誰でも失敗する。「失敗なんかしたことないさ」と豪語する人は、単に自分の失敗を忘れたか、 普通の感覚では『失敗』と認識するものを失敗と思わないだけである。失敗したときのことを後になって思い出してみると、 『何を考えていたのだろう』とか、『自分の考えていたことがよく思い出せない』ということがある。また、 自信を持って事に処したのに信じられないような結果になることがある。その時は意外な結果であっても、 後から視点を変えて考えてみると、当然の成り行きだったりする。

   私がスタンフォード大学で、設計プロトタイピングの講義・演習講座受講中のことである。 その日は学生が初めて工作室に入り、指導教官(仮にジョンと呼ぼう)にNCの使い方を教わっていた。 生徒は女性2名を含めた8名。ラピッドプロトタイピングを教わるため、 被削材にはロウの塊(パラフィン)や模型用のプラスチック版を使っていた。 ジョンは、いつも冗談を言っては学生を笑わせる超ネアカのアメリカ人(カルフォルニアにはこういう人が多い)。 如何に早く、欲しい形状を削りだして設計から試作までの時間を短縮するか話していた。
   ジョンがこの時欲しかったのは1mm程度の薄い長方形板の4隅にネジ穴をあけ、 中央部をくりぬいた蓋のようなもの(図1)。この基になる材料をきちんと治具を用いて固定しようとすると、 その治具がNCのヘッドに当たらないか、あるいは、最後の製品切り離し工程のため、 治具で製品を固定しなおして位置合わせをしなければならないなど、 5分程度の切削行程の前準備に30分や1時間はかかる代物である。
「そんなに時間かかっちゃ、ラピッドじゃないよな。そこで登場するのがこれさ。」ジョンが得意げに取り出したのは、 どこの文房具屋さんでも売っている両面テープ。
「大き目の四角いパラフィンの固まりを適当に固定するだろう。そしてそいつの上面をまずNCで平らにするのさ。」 パラフィンは、1分も経たない間に削られ、大き目の平面が用意された。
「で、この両面テープを使って、このプラ板をこのパラフィンの平面に貼り付けるのさ。」ジョンはいかにも自分のアイデアが得意げだった。
「でも、両面テープが柔らかくて寸法通り削れなくはないですか。」生徒の一人が質問した。
「いや、両面テープの均一性は信頼できるし、プラ板が動いてしまうこともないよ。両面テープを貼るときにしわが寄ったり、 重なったりしないように注意しないといけない。ところがだ。この方法にも難点が一つあるんだ。なんだと思う。」 ジョンの問いに生徒たちは顔を見合わせるばかり。
「切削が終わった後にこいつをはがすのが大変なんだ。かみそりを使ったり、のみでコンコン叩いたりさ。で、 こいつみたいに肉があまり残らないやつほど、はがすのが面倒なんだ。だから最初から全面にテープを貼り付けないで、 4辺の2つだけに貼れば良いのさ。で、切削するとき、下のパラフィンごと削っちまうのさ。 な、パラフィンごと削るなんて思わなかっただろう。」なるほど、ボール盤で薄板に穴をあけるとき、 よくやるのが下に木などを置いてドリルの先が薄板を突き抜けても良いようにする。こうしないと、最後に穴が抜けたとき、 プラ板が割れてしまうからだ。しかし、正確な寸法を出さなきゃならないミル加工のときも同じ原理が使えるのは盲点だった。 下のパラフィンを削って正確な平面を準備すればいいのだ。

「でも、まずは本物を削る前にチェックだ。ラピッドとは言え、やみくもになんでもやったらだめなんだ。 本物をくっつけないで、まずパラフィンだけを削ってみよう。」ジョンは得意げに切削条件をNCに打ち込んでいく。
「まずは、NCプログラムをフロッピーから読み込むだろう。削るのは、プラ板とパラフィンなんだから毎秒10cmでもOK。 原点を入力して、仕上げ用の工具をつかませて、さあ、削るよ。」ジョンが黒いスィッチを押すと、 スピンドルがキーンと心地良い高速回転の音を立て始めた。そしてゆっくりとパラフィンの塊に向かって降りていく。 ジョンの右手は明らかにそれとわかる赤い緊急停止のボタンにかかっている。少し叫ぶような声で彼は続けた。
「こうやって試し削りのときも、必ず緊急停止ボタンに手を掛けておくんだ。プログラムにバグがあったら、 マシンがオシャカになっちゃうだろう。君らが一生かかっても弁償できないほど高いんだぜ、このマシンは。」 私たちの目の前で、青いパラフィンが水色の粉となって飛び散っていく。30秒もたたずに試し削りは終わった。 圧縮エアガンで残った切りくずを吹き飛ばすと、そこには設計図と全く同じ形状が出現した。 ただ、それがパラフィンの表面に化石のように貼り付いているだけである。
「よし、図面のとおりだろう。後はもう一度、平面に削りなおして、」ジョンがNCに工具の変更を指示すると、 NCは先ほど工具パレットに置いた平面出し用の大口径ミルをつかみ直した。スィッチを押して再びまっ平らな平面が用意される。
「後はこうやって、削った後に残される2辺を両面テープでしっかり固定し、仕上げ用ミルに持ち替えて、さあ、準備完了。ビューティフル!」 こうしてジョンのNC切削デモの準備(図2)はできた。



「マシンはさっきと同じ動きをするだけだからな。それでも、緊急停止ボタンに手を掛けるのを忘れるんじゃないよ。 よし、行くよ。」スィッチオンとともに、キーンという音が鳴り、先ほどと全く同じように回転している仕上げ用ミルが、 今度はプラ板に近づいていく。まずは、四角蓋の外形が削られる。パラフィンからの水色の切りくずに混じって無色のプラ板が白い切りくずを吐き出す。 外形が終わる(図3-(a))と、ミルはちょっと持ち上がり、今度は中ぐりを始めるために降りていく。 その時が、あれっと思ったらプラ板が膨らみ始めた(図3-(b))。
『熱で膨張?そんなバカな!』と思った瞬間、バキンと大きな音がして今度はミルの根元でプラ板が回転している(図3-(c))。 そして、ピンというもう少し小さな音とともに、プラ板の破片が四方に飛び散った(図3-(d))。 そしてジョンが緊急停止ボタンを押したのだろう、ギューンと音がして回転が止まり、 NCの伸びたアームが『休め』の位置に戻っていった。
   何が起こったか、理解するのに数秒かかった。そして、それがわかったとき、冷や汗がどっと溢れてきた。 尻もちをつくやつ。じっとパラフィンの表面を見詰めたままのやつ。よそ見していたのか、「えっ、何があったの?ねえ、どうしたの?」 と隣の生徒の腕をつかんでゆすっている女生徒。
「いや、割れちゃったんだ。えー、信じられない。でも、割れて飛び散ったんだ。」みんな顔を見合わせ、 血が流れていないのを確かめてホッとした。やがて、みんなは黙って飛び散った破片を探し始めた。
   先ほどのボール盤で薄板に穴をあけた経験のある人ならわかると思う。ドリルが板を抜けた瞬間、 大きな上向きの力が板にかかる。これはドリルのらせん状切りくず溝が最後のところで板に噛み込み、その板を持ち上げようとするからだ。 そのため、板と木の下敷きはしっかりバイスで固定しなければいけない。始めの加工力が弱いため、 バカにして手で押さえられると思ったら大間違いで、最後のところで板が吸い上げられ、ブンブン回って大怪我をする。
   ジョンは工作室の指導教官。10年以上機械加工の経験があり、ボール盤を使うときのこの注意事項は熟知していた。 ところが、NC工作機とボール盤は見た目がずいぶん違う。また、NC切削のほとんどはミルの横腹で直線状に削っていくもの。 ミルがプラ板に入るときはボール盤の穴あけと全く同じ条件だとは気がつかなかった。 先に行った外形削りでは、最初にミルがプラ板に入ったのが、テープで固定したすぐ横だったのだろう。 専門的に後から考察すると、残る4辺のうち、2辺だけをテープで固定するのではなく、 テープがついて欲しくない2辺以外の部分を全部べったり固定するべきだった(図4)。が、この記事は技術的考察が目的ではない。

   人間はつまり、常に100%の状態で行動できないものである。眠いことがあったり、 プライベートなことが気になっていたりする。また、この例のように完全に集中していて、自分の知恵を駆使してよく考えるとわかるのに、 事が起こったあとで、あっと気付くことがある。この時は、飛び散ったシャープな破片が、 生徒の間をすり抜けて飛んでいったので大事には至らなかっただけである。

   大切なことは、この事故に学んで同じような間違いを繰り返さないこと。幸いこの場に居合わせた8人は、 この衝撃的な事件を忘れないだろう。そして同じように薄板の加工をするときは、その固定に神経質なほど注意するだろう。 周りが「そんなに気を使わなくても」と言いでもしたらしめたもので、この学生時代の怖い体験を話して聞かせると良い。 また、この記事を読んだ人が、同じような場面に遭遇してこの話を思い出してくれればこんなに嬉しいことはない。

   失敗は語って伝えるもの。それも、聞き手・読み手が、 あたかもその場に居合わせたような疑似体験ができるように伝えなければならない。 そうして初めて失敗知識を共有する地盤が形成される。