与兵の扉を開ける時

−あなたは本当に後悔しないか−
2004年1月  飯野謙次
   父の転勤で、僕の家族は、当時1960年代はまだ珍しかった海外駐在員の一家だった。 大阪に戻った1967年はビートルズの全盛期。大阪の街で、生まれたくせに都会生活が息苦しく、 3ヶ月もたたずに三重県に住居を移した。

   名張市桔梗が丘は、今でこそ大阪のベッドダウンとして、通勤時間1時間以内の住宅街として発展しているようだが、 当時はまだ小学校もなく。子どもの足には少し厳しかったが、片道30分の通学路を、朝は列をなして登校した。夕方の帰宅は三々五々、 友達と一緒に大いに自然を満喫しながら1時間くらいかけて帰った。もちろん休みの日には、かぶと虫やクワガタを取りに山に入ったり、 川へ釣りに行ったり、少年草野球(こんな言葉はないかもしれないけれど、今の少年野球と違い、子どもたちが自分らで企画し、 自分たちで行うクラス対抗戦。もちろんユニフォームなどない。)なぞして、よく遊んだ。
   が、そこはさすがに都会とは違う。日が落ちて暗くなると何もやることがなくなってしまう。そんなこともあったためか、 楽しみにしているテレビ番組のない日はよく本を読んだ。桔梗が丘に移り住んだのが小学3年生だから、民話の世界は既に卒業しており、 シートン動物記や、文学作品を平易な言葉に直した子供用文学全集などを読んだ。だから、普通なら小学校低学年で触れる童話や民話を、 僕はずいぶん大きくなった高校生になってから初めて学んだ。
   大人になった今でも、子どもの教科書を盗み読んだりすることがあるが、子供の本だからといってバカにしてはいけない。 ストーリーはちゃんとあるし、秘めたメッセージを行間にびっしり埋めたようなフィクションだってある。 最近流行っている誰でも芸能人エッセーよりはよほど読み応えがある。そして、悲しい恋の歌が好きな、 日本人のルーツを見せるかのような悲しいエンディングの物語も多い。そんな中から失敗にまつわる話を1つ思い出していただきたい。 ただし、記憶があやふやなため、細かいところは違っているかもしれない。

   与兵は仕事の帰り道、怪我をして動けないでいる鶴を発見。かわいそうに思った与兵はその鶴を自分の家に連れて帰り、 傷の手当てをしてやった。やがて元気になった鶴は飛び立っていく。
   ある冬の寒い日、与兵の家の戸を叩く者があった。そっと戸を開けると美しい娘が立っていた。与兵はその娘を家に入れてやる。 娘は、機(はた)を織って反物を作るから家において欲しいと与兵に頼む。しかしこの時、 娘は決して機を織っているところを見てはいけないと与兵に約束させる。
   娘が織った反物は、飛ぶように売れ、与兵の生活は見る見る良くなっていく、が、 同時に与兵は娘の機織りの様子をのぞいてみたくて仕方なくなる。ある夜、 とうとう我慢できなくなった与兵はそっと障子を開けて中をのぞいてみるとそこには、いつか助けたつるが、 自らの羽をむしりながら織物に織り込んでいる姿があった。自分が人間ではないことを見られたつるは最後の反物を残して与兵の元を去っていく。

   子どもにこの物語を聞かせる時は、他人との固い約束を破ると、ひどい目に会うということを教えるわけだが、 大人の視点から考えてみるとどうだろうか。約束を破った与兵の行動は完全な失敗であった。娘と約束した通り、機織りの様子を覗かず、 我慢していれば、そのまま生活は安泰。いい生活がいつまでも続いたかも知れない。しかし、 与兵の状況に自分を仮に置いてみると、いつまでも娘の機織りを覗かずに我慢できる人がはたしているだろうか。
   自分の子供時代からの成長を思い起こしてみよう。子どものころは、世の中のことなどほんの表面上のことしかわからず、 親や学校の先生が絶対的存在で、人に言われるとおりやっていれば、時間は無事過ぎていった。人により環境は違うだろうが、 ごく普通の家庭に育った僕は、この時期、とにかく幸福であった。
   それがやがて、自我の目覚めとともに、学校の先生も親も、自分と同じ人間であることに気がつく。 それまで絶対的崇拝をしていたものに、裏切られたような気がして、このころはやたらと腹が立った。 ちょうど体が子供体型から大人体型に変わる時期でもあり、この感情が度を過ぎると社会への反発となって表われる。 つまり、物事への理解が深まり、真実を知ることにより、ある一面では不幸感が増す時代である。
   ところが社会人になるころには、不完全な言動を取る他人は、自分も含めてエゴを持った普通の人間であることを認め、 当り障りのないあたりで上手に付き合う術を身につける。

   この個人の成長と同じ様相を、失敗に相対する社会の成熟度が示す。つまり、成長過程にある社会では、 とにかくがむしゃらに仕事をすればよかった。少し余裕が出てくると、社会の矛盾やひずみが露呈し、責任追及の嵐がやまない。
   今、私たちの社会は、人間で言えばこの青年期から熟年に向かう過渡期にいるような気がしてならない。 社会の仕組みが不完全なために、学生運動など様々な過激社会現象が生まれた60年代から70年代。それは社会に対する人々の関心が高まり、 人々が怒りを表現していた時代だと思う。その後、"無気力"と言われる時代が来るが、それは無気力なのではなく、 次の社会を迎えるべく塾考と試行を繰り返しているように思える。
   失敗が露呈したときにそれを責め立てることに専念するのは未完成の社会の様子。 私たちはもっと失敗と上手く付き合える社会の仕組みを作っていかなければならないと思う。それこそ何十年かかるかもしれないが、 それが時代の流れではないだろうか。

   さて、話を与兵にもどして、私たち人は、社会や職業など、それほど本能に近くない面においては、 冷静な対応を考えられるようだ。では、もっと個人の感情を揺さぶる面ではどうだろうか。与兵が置かれた、 エゴと約束の間の難しい選択を迫られることが、今になって私たちに突きつけられることが多い。すなわち、家庭不和の原因が暴かれるのが、 携帯電話の通話記録やメールだという。結婚に至っていなくても、これが原因で関係がこじれる男女が多いのではないだろうか。
   自分のパートナーの個人的所有物である通信の記録、それをちょっと覗いてみたいのは誰しも思うことだろう。 これを覗いて良いものかどうか、僕は法律の専門家ではないからわからないが、覗ける状況にあったとき、 人はあまりに簡単に与兵の扉を開けているのではないだろうか。
   先の民話で、つるは悲嘆の内に与兵の元を去っていったが、それは決して、 自分がつるであることがばれたことが直接原因ではない。賢いつるは、 自分の正体を知った与兵の気持ちが自分から離れていくことがわかっていたからである。 だからこそ、目の前に自分のパートナーの携帯電話があったとき、それを開けてみようという気も起こらない人は幸福である。 思わず手を伸ばしてしまうのは、蛇のささやきを聞いたイブと同じ。開扉のボタンシーケンスを押す前によく考えてみて欲しい。 自分が見たくないのに探そうとしている物が、そこにあってもなくても、自分が見ようとした事実は自分の中から決して消えることはない。 扉を押してあける行為自体が自分の気持ちを遠ざける結果になる。だから、今は不安であっても、自分が大事にしたいものならば、 与兵の扉は決して押してはいけないものだ。僕の周りにはこの扉を開けて失敗した人が多い。